桂小五郎の処世術!逃げるは恥じゃない?驚きの人柄とは!
「維新三傑」と謳われた
木戸孝允(きどたかよし)。
明治維新の立役者として
江戸幕末から明治時代まで
活躍した人物です。
幕末には
「桂小五郎(かつらこごろう)」
という名前の武士でした。
「逃げるは恥」
であるはずの武士、
桂小五郎は
逃げまくる!?
維新三傑・桂小五郎の
意外な性格とは!
今回は木戸孝允こと
桂小五郎の生き方を
ご紹介します。
幼少時代のフクザツな立場
桂小五郎といえば
長州藩士。
現在の山口県である
長州藩に仕える
武士として有名です。
そんな桂小五郎は、
実は武士の生まれではありません。
現在の山口県萩市、
長門国(ながとのくに)萩城下呉服町、
和田昌景という医者の長男に生まれました。
和田家は戦国武将、
毛利元就の七男の血を
引いているという家系だそうです。
そんな小五郎は
生まれつき体が弱く、
「無事に大人になれないんじゃないか」
と思われていました。
そのため、長男であるにも
かかわらず、
武家へと養子に出されます。
跡取りとなるはずが、
他家の養子へ。
生家の和田家には、
長姉に婿養子が入りました。
さて、養子に出された小五郎。
養子に出された先の家は
生家の向かいの家でした。
それが武家の桂家。
桂家の家禄は150石で、
大組士という武士の身分でした。
小五郎は、
そんな桂家の末期養子になります。
末期養子というのは、
跡継ぎのいない武家の当主が
事故や急病などで
危ういときに取られる
一時的措置。
家が断絶してしまうのを
防ぐ目的で、
取り急ぎ養子縁組をすることです。
なので、当主が元気になれば
養子縁組は解消になる場合もありました。
小五郎は当時7歳でした。
しかし養子に出た翌年、
桂家の養母も亡くなってしまい、
小五郎は、
実家の和田家に戻ることになります。
結局8歳以降は
実の両親・次姉と一緒に
暮らすことになります。
幼少時代はやんちゃボウズ!?
体の弱かった桂小五郎。
病弱でおとなしくて・・・
なんてことはありません!
長くは生きられないと
周囲に思われるほど
体が弱かった
桂小五郎ですが、
いたずらが大好き!
たとえば
川を往来する船を
ひっくり返して
大笑いする
なんていたずらに
熱中していたことが
ありました。
なかなか大胆で
危険ないたずらです。
あるとき、桂小五郎が
いつものいたずらを仕掛けようと
水面から顔を出し、
舟に手を掛けると、
業を煮やしていた
船頭が、
舟の櫂で小五郎の頭を
叩き、懲らしめます。
桂小五郎は
額から血を流し、
この時の傷は
三日月形の傷跡として
額に残ったといいます。
しかし桂小五郎、
反省するどころか、
岸に上がって
ニコニコ笑っていたそうです。
とんでもない
いたずら坊主ですね。
そんないたずら大好きな
桂小五郎少年は、
大変頭の回転の速い
子供だったそうです。
10代になると、
藩主・毛利敬親による親試を受けます。
藩主の毛利敬親は
身分にこだわらず
人材を募っていた
殿様でした。
そんな毛利敬親の出す試問とは、
即興の漢詩作成や
『孟子』の解説。
学識や応用力がなければ
答えられない問題です。
そんな試問に
桂小五郎は2度も合格!
藩の殿様にも認められる才能を
持っていたんですね。
小五郎を襲った悲劇
さて、実家で実の家族と
暮らしていた桂小五郎。
15歳の時に
一緒に暮らしていた姉が、
そして実の母を
病で失います。
桂小五郎の哀しみようといったら、
ありませんでした。
もともと体の弱かった
桂小五郎は、
悲しみのあまり
病床に臥し続け、
「出家する!!!」
と言ってはばからなかったそうです。
1年後、
桂小五郎はある先生に弟子入りします。
桂小五郎が弟子入りした先生とは、
吉田松陰(よしだしょういん)。
吉田松陰は長州藩の武士で、
倒幕運動の指導者として有名ですが、
教育者でもありました。
山鹿流(やまがりゅう)兵学の
師範を持っていた吉田松陰。
桂小五郎は、
そんな吉田松陰から
山鹿流兵学を学びます。
吉田松陰は桂小五郎を見て、
「事をなすの才あり」
と高い評価をしています。
桂小五郎は剣も強かった!
吉田松陰の弟子となる3年前、
13歳の時、
桂小五郎は長州藩の剣術師範家、
内藤作兵衛の道場に
入門します。
流派は柳生新陰流。
2年後の15歳の時、
小五郎は元服(成人)し、
和田小五郎から
桂小五郎となります。
そのとき、
和田家の実の父親から
「もとが武士でない以上、
人一倍武士になるよう
粉骨精進せねばならぬ」
と言われます。
それから桂小五郎は
剣術修行にはげみ、
実力を付けます。
そうして19歳の時、
「剣術修行」という名目で
江戸に留学することを
決意します。
当時は藩が現在の「国」のような
ものですから、
勝手に藩を出ることはできません。
おなじ日本のなかでも、
まさに江戸「留学」でした。
そして桂小五郎の江戸剣術修行は
藩から許可が下り、
神道無念流に入門することになります。
神道無念流は
当時流行の流派で、
幕末江戸三大道場の一つでした。
ちなみに幕末江戸三大道場とは、
・士学館(鏡新明智流)桃井春蔵
・玄武館(北辰一刀流)千葉周作
・練兵館(神道無念流)斎藤弥九郎
の三つを指します。
当時「江戸三大道場」と
呼ばれていたわけではありませんが、
明治時代にこうした評判が広まったそうです。
この3つ目の練兵館道場に
桂小五郎は入門します。
「力の斎藤」
と名高い流派で、
桂小五郎は頭角を現します。
なんと入門1年目で
塾頭にまでなります。
実は桂小五郎は
当時としては
大柄な体型でした。
江戸幕末当時、
日本人の身長は
日本人の歴史の中でも
もっとも身長が低かった、
とも言われることもあるくらいで、
幕末の日本人男性の平均身長は
158~159cm位だったといわれています。
そんななか、
木戸孝允の身長は
174cmと
言われています。
体格にも恵まれていた
桂小五郎。
5年間は練兵館道場で
塾頭を務めました。
しかし、5年経ったとき、
桂小五郎は
藩の命令で
長州藩に帰国することになります。
黒船の衝撃
練兵館道場に来て2年目。
ペリーが再度
日本に来航します。
すると桂小五郎は
黒船を見学を申し出ます。
当時、勝手に他藩に
移動することは禁じられていました。
なので桂小五郎は、
練兵館道場の師匠、
斎藤弥九郎にお願いします。
そして伊豆・相模・甲斐など、
幕府領5か国を束ねる代官、
江川英龍(えがわひでたつ)に
実地見学を申し入れ、
江川英龍の付き人として
ペリー艦隊の黒船を
見学することを許されます。
この江川英龍という
幕府の侍は、
当時民衆に人気のあった
人物でした。
あの二宮尊徳(二宮金次郎)を
取り立てて、
農地開拓を行ったり、
天然痘のワクチンを
領民に打たせたりと、
領民思いの立派な人物でした。
なので領民も敬愛を込めて、
「世直し江川大明神」
と呼んでいました。
そんな江川英龍と
練兵館道場・斎藤弥九郎は
もともと同じ先生に
剣を学んでいたため、
友人だったのです。
こうしたツテや運もあって、
桂小五郎の黒船見学が
実現したのですね。
さて、黒船を目の当たりにした
桂小五郎。
その時、
桂小五郎は、
黒船を実際に目にして、
その姿に衝撃を受けます。
「外国で学ばないとだめだ」
そう思った桂小五郎は、
さっそく留学を申し出ます。
おなじ長州藩士で、
江戸で親交のあった
来原良蔵(くるはらりょうぞう)と
ともに、
海外への留学願いを
長州藩に共同提出します。
当時、長州藩は
あることへの対応に弱っていました。
それは、
桂小五郎の学問の師匠である
吉田松陰。
実は吉田松陰、
「下田踏海」
という問題を起こしていました。
嘉永7年(1854年)、
日米和親条約締結のために
ペリーが下田に再来航したときのことです。
吉田松陰は長州藩の
足軽・金子重之輔と2人で、
海岸の小舟を盗み、
下田港内にある小島から
旗艦ポーハタン号に
乗船したのです!
この時、実は
桂小五郎も
協力しようと申し出ていました。
しかし吉田松陰は弟子のことを思って、
桂小五郎を強く制止。
おかげで桂小五郎が
処罰されることは
ありませんでした。
しかし、吉田松陰は
決死の覚悟で黒船に乗り込んだものの、
アメリカ側からも渡航は拒否されてしまい、
乗り付けた小船は流されてしまったので
こっそり戻ることもできず、
下田奉行所に自首することになります。
そして吉田松陰は、
伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
当然、長州藩としては
渡米を試みた罪人・吉田松陰への対応を
どうするか、という
対応に追われます。
そんな中、桂小五郎が
「海外留学」
を申し出たのですから
長州藩の重役たちは
驚愕してしまいます。
長州藩といえば
倒幕の先駆けとなった
イメージがありますが、
この時はまだ
倒幕という方針を
持つ前。
鎖国体制の幕府の下にある
長州藩が、
「海外留学」
という幕府の禁忌をおかすなど
まずありえないことでした。
海外留学は実現しないものの、
桂小五郎はあきらめません。
剣道場・練兵館の塾頭をしながら、
桂小五郎はさまざまな勉強をしました。
・西洋兵学、小銃術、砲台築造術
・スクネール式洋式造船術
・英語
鎖国体制化の日本にありながら、
桂小五郎は
常に最先端の知識を吸収していく
姿勢をみせます。
長州藩で欠かせない存在に
24歳で長州藩に呼び戻された桂小五郎ですが、
やがて長州藩の中枢で頭角を現し始めます。
29歳の時には、
周布政之助・久坂玄瑞らとともに、
師匠・吉田松陰の唱えた
「航海雄略論」
を採用します。
その頃、長州藩では
大目付の長井雅楽(ながい うた)が
「航海遠略策」
を唱えていました。
この政策は
幕府にのみ都合の良いものでした。
しかし桂小五郎たちは
今の幕府には力がないとみて、
吉田松陰の「航海雄略論」によって
これを退け、
長州藩の藩論を
「開国」
「攘夷」
へと変えてしまいました。
その頃、幕府も難しい立場に
おかれていました。
「異勅屈服開港」
しながらの
「鎖港鎖国攘夷」
という
わけのわからない路線に
陥っていました。
当時の情勢上、
仕方がない面もあるのですが、
攘夷、つまり
外国はすべて打ち払うという約束を
朝廷にしておきながら、
来航する外国船には
開港を約束するような、
矛盾した状態に
おかれていたのです。
台頭した桂小五郎たち長州藩の
新主導者たちにとって、
そんな幕府の路線は
もはや論外。
論じるに値しない、
として退けています。
さらに
長州藩の政治勢力は、
桂小五郎のような
開明派が
中枢を形成していきます。
桂小五郎自身も、
周布政之助といぅ者に
引き上げられましたが、
桂小五郎も村田蔵六、
のちの大村益次郎を
藩の中枢へと引き上げました。
村田蔵六はオランダ語や
英語に精通していました。
そうした開明派が藩中枢にそろったことで、
長州藩では秘密裏に
留学生が選ばれ、
なんと藩の公費で
秘密留学が可能となります!
藩論や方針が
まったく変わったことがわかります。
追い込まれる長州藩
しかしこれでも、
桂小五郎や高杉晋作は
慎重派でした。
一方、朝廷は当時、
相当の異国嫌い。
日本の土地に
異国人が入ってくることを
非常に恐れていました。
過激な攘夷思想をもった朝廷は、
幕府に対して攘夷実行を要求。
幕府は上の権力、朝廷の意向を
無視することはできません。
幕府は攘夷決行の宣言を
発令せざるを得ませんでした。
それを実行すべく、
久坂玄瑞が率いる長州軍が
外国船に対して発砲。
桂小五郎たちの意向とは逆に、
攘夷戦争を始めてしまいます。
下関から、関門海峡を通過中の
外国艦船に対して発砲した長州軍。
これを機に長州藩には
英・米・仏・蘭の
4か国連合艦隊が攻めてきます。
約2年間続いた
長州藩と4か国連合艦隊との戦争。
結果は当然ながら、
長州藩の敗北に終わります。
敗戦国である長州藩には
4か国連合から
多額の賠償金が要求されます。
しかし長州藩は
「攘夷実行を命令したのは
幕府なので、
われわれ長州藩は
幕府の命令に従ったにすぎない!」
として、なんと幕府に賠償請求をするよう、
4か国連合と話をつけてしまいます。
幕府にしてみれば
とんでもない話ではありますが・・・。
同じ頃、桂小五郎は
5月に京都へ上ります。
これは長州藩の命令によるものでした。
ままならない長州内
孝明天皇がトップだった
当時の朝廷は、
長州系の公家が
実権を掌握していました。
長州藩は結構
力を持っていたんですね。
しかし長州が
4か国連合と戦争を始めた
3か月後、
長州藩がその勢力を
追われる事件が起こります。
「八月十八日の政変」
と呼ばれる有名な事件です。
幕府や薩摩藩が結託して、
やっかいな長州藩を
京都から締め出してしまおう、
というクーデターで、
それまで朝廷で権力を持っていた
長州派の公家、
三条実美らが追い出され、
長州藩も京から追放されてしまいます。
さらには1年後の6月5日、
新選組による池田屋事件で
長州藩士が多く倒れ、
また捕縛されます。
「八月十八日の政変」で
追い込まれた攘夷派が
勢力挽回したいために
クーデターを計画している、
という理由で、
新選組が旅館「池田屋」を
襲撃したのが
「池田屋事件」でした。
ことの真相はともかく、
長州藩や攘夷派は
これ以降、新選組と
とくに恨むようになります。
桂小五郎が木戸孝允となって
のちに振り返ったことによれば、
池田屋事件の起きた夜、
桂小五郎自身も
一旦は池田屋に赴いたが、
時間が早すぎたので
一度戻ったため
無事だった
と説明しています。
実は池田屋にいて、
「味方を置いて逃げたとは言えないだろう」
という説もありますが、
実際のところはわかりません。
ともかく、長州藩は
幕府から徹底的に
目を付けられていました。
そんな状況になっても、
桂小五郎や周布政之助・高杉晋作たちは
冷静でした。
血気逸る長州藩に対し、
桂小五郎らは武力行使反対を
貫きます。
そんな努力もむなしく、
久坂玄瑞・来島又兵衛ら
先発隊約300人が
上洛してそれぞれ陣取り、
朝廷に長州の入京を
迫ります。
朝廷は長州の呼びかけに
応えかけましたが、
幕府の圧力からそれには至りません。
そしてついには、長州軍と
幕府側である会津藩兵が
武力衝突するという事態に
おちいります。
「蛤御門の変」
あるいは
「禁門の変」
と呼ばれる事件です。
結局、長州藩は敗走することになります。
この頃、桂小五郎はというと、
長州藩の味方を増やさねば、
と孤軍奮闘していました。
因州藩を説得して味方につけようと考え、
因州藩が警護をしていた有栖川宮邸へ
赴き、因州藩の尊攘派有力者
河田景与と談判することに成功します。
しかし河田景与の判断は、
桂小五郎には応じない、
というものでした。
時勢を見た河田景与は、
長州藩に味方するのは時期尚早と
判断したのです。
桂小五郎は河田景与の説得を
断念します。
ただし桂小五郎は
諦めたわけではありませんでした。
孝明天皇が御所から避難するところへ、
なんと一人で直訴をしようと
待ち構えたのです。
しかし、孝明天皇への直訴も
叶いませんでした。
なんとか混乱の場を切り抜け、
桂小五郎は京での潜伏生活を
余儀なくされます。
逃げの小五郎・潜伏生活
潜伏生活を強いられた
桂小五郎。
そんな桂小五郎を支えたのが
三本木の芸子である幾松や、
対馬藩士・大島友之允でした。
幕府による残党狩りの危険も顧みず、
パートナーの幾松は
こっそり握り飯をもっていったり、
支え続けていたようです。
その頃、会津藩など幕府側の
長州藩士の残党狩りが厳しくなり、
潜伏生活もいよいよ困難になってきました。
桂小五郎は京を離れ、
但馬の出石に潜伏せざるを得ませんでした。
武士は後ろ傷を受けることを
恥としますが、
逃げの小五郎とは
政局上しかたのなかったこと
だったんですね。
桂小五郎の人柄とは?
病弱、逃げの小五郎・・・などなど、
あまり印象の良くない言葉も
ついて回る桂小五郎ですが、
当の本人は
かなり気さくな人柄だったようです。
小さいころから
いたずら好きという
明るい性格でしたが、
大人になっても
明るいのは変わらなかったようです。
明治政府では
木戸孝允として
政府の高官となりますが、
身分が低い後輩の家に
いきなりお邪魔したりするなど、
誰相手でも
突撃訪問していたようです。
旧米沢藩士の平田東助などは、
書生が
「木戸公がいらっしゃいました」
と取り次いだのを、
「そんな訳があるか、お使いの者だろう」
と言い返すと、
「いや木戸公ご本人です」
と言い張るので見てみると、
本当に木戸孝允本人が来ていたそうです。
しかし平田東助の住んでいた家は
とても狭く、まして応接間などは
ありません。
相手は明治政府高官の木戸孝允。
困った平田東助は、
自分が寝ていた布団を
大慌てで庭に放り捨て、
なんとか木戸孝允を
招き入れたそうです。
こんな性格ですから、
木戸孝允は布団など
気にしなかったかもしれません。
しかし相手は木戸孝允。
訪問された方は
困惑を隠せなかったようです。
病人の家に行けば
医者を呼ぶなど、
面倒見も良かった桂小五郎。
師匠の吉田松陰も
「桂は厚情の人物なり」
とその性質を評価しています。
大隈重信は
「木戸は正直真面目な人であって、
雄弁滔々、奇才縦横であるが、
併しなかなか誠実な人であった。」
と、木戸孝允の人柄を
真面目で正直、
誠実だとしています。
さらに大隈重信は
大久保利通とは正反対だ、と
木戸孝允を評価しています。
木 戸:洒々落々とした所があって、
思ったことは何でも喋舌る
詩も作れば歌も詠む、
風流韻事は頗る長じて居って、
遊ぶとも騒ぐとも好きで陽気であった
大久保:沈黙の人
木 戸:創業の人なり。
大久保:守成の人なり
木 戸:自動的の人なり。
大久保:他動的の人なり。
木戸:慧敏闊達の人なり。
大久保:沈黙重厚の人なり。
木 戸:進歩主義を執る者
大久保:保守主義を奉ずる者なり。
木 戸:旧物を破壊して
百事を改革せんとする
王政維新の論を取り
大久保:之に反して
漸時大賽令の往時に復せんとする
王政復古の説に傾けり。
大久保利通は静かで保守的、
木戸孝允は明るく、革新的な人物だ
と言っています。
他にもこんな風に説明しています。
「木戸公の容貌風采は立派で、
一見して一個の勇者堂々たる偉丈夫であった。」
見た目が立派だったようです。
「剣客斉藤弥九郎の門人で、
文明的頭脳、立憲的思想、
聡明なる天資に加ふるに
欧米視察の実験を以てして、
才幹鋭敏、気性洒落、
君国には誠忠を尽くし、
知人には情に厚く、
人に接するに城府を設けないが、
その代り感情が激しく、
喜ぶこともあれば怒ることもあった」
強くて賢く、
洒落者であり、
忠義に厚くて
情にも厚い、
さらには誰とでも接する・・・と。
かなりべた褒めです。
しかし感情は豊かに
表現する方だったようで、
喜んだり怒ったりという、
あまり裏表のない人物像の様です。
他にも、有名な幕臣、
勝海舟は、木戸孝允のことを
こんな風に評価しています。
「木戸松菊は西郷などに比べると非常に小さい。
しかし綿密な男サ。
使い所によりては、随分使える奴だった。
あまり用心しすぎるので、
とても大きな事には向かないがノー」
木戸孝允はどうも人が良すぎる感のある
人物だったようですね。
後世の歴史家たちの評価は、
総じて
「先見の明がある」
でした。
中には、先を見通しすぎて、
木戸孝允が提案した案を、
木戸孝允自身はもうすでに
違う方面に進んでいるのに、
まわりはようやく採用する、
という始末だったというものもあります。
潜伏生活を余儀なくされていた時も、
まわりは次々と捕縛、処罰される中、
長州藩には帰らず、
冷静に状況を分析していた、
と評価されています。
やはり当時の人間としては、
同胞が窮地に陥っている中を
ひとり逃げ続けるというのは
気が引けるものなのでしょう。
桂小五郎の「理性」と「合理主義」と
史家・宮地正人氏は評価していますが、
侍ならば、
「仲間がひどい目に遭っているのに!」
と忠義立ての気持ちで
飛び出して行ってしまいそうなものです。
そういった意味でも、
木戸孝允・桂小五郎は
将来や目的を見据えて
ひたすら身を使ったのかも
しれませんね。