奥の細道の平泉・芭蕉はなぜ泣いた?

奥の細道の平泉・芭蕉はなぜ泣いた?

 

俳人として著名な松尾芭蕉が書いた、『奥の細道』の平泉に出てくるワンフレーズに「涙を落としはべりぬ」とあります。

松尾芭蕉は、なぜ平泉で涙を流したのでしょうか。

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"涙を落としはべりぬ"全文

松尾芭蕉が書いた、平泉の文章を確認してみましょう。

国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
 笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

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前半部分の意味

前半部分の "国破れて山河あり、城春にして草青みたりと" は、他で聞き覚えのあるフレーズです。

 

杜甫(とほ)作の漢詩『春望』の一節、

 国破山河在(国破れて山河在り)
 城春草木深(城春にして草木深し)

 

奥の細道の平泉に出てくる今回の一節は、この漢詩をつい思い出した、という、芭蕉の心情を表しています。

 

杜甫は中国(唐)の人であり、芭蕉よりはるか昔の人ですが、芭蕉にしてみれば、

そういえば、かの有名な杜甫も書き残していたが、あのむなしさは、まさにこの有様だ」ということですね。

 

時代や国に関わらず、人間社会の栄華の儚さを思ってしまう、感慨であるのかもしれません。

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後半部分の意味

さて、『春望』を参照した一節のあと、芭蕉は次のように続けます。

笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 

松尾芭蕉は、草の生い茂る平泉を見て、旅の笠を脱ぎ置いて、長いこと佇み泣いていた、というのです。

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芭蕉が泣いた平泉とはどんな土地?

芭蕉が平泉で泣いた理由を、確認していきましょう。

平泉とは、現在の岩手県にある地名です。

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平安の昔、平泉は"奥州藤原氏"の支配する土地でした。

中央政権の権力も届かない東北の地で、栄華を誇った奥州藤原氏。

 

そんな奥州藤原氏のもとに、ある人物が逃げ込んできます。

 

源九郎義経

 

兄・源頼朝の怒りをかって追われていた源義経は、ついに平泉の地で最期を迎えます。(※諸説あり)

そして鎌倉幕府も迂闊に手を出せなかった奥州藤原氏も、源義経をかばったことで、鎌倉幕府に滅ぼされてしまうのです。

 

朝廷も幕府も手を出せなかった土地・平泉ですが、芭蕉が目の当たりにした平泉は、草が伸び青々と茂っている、人間社会の栄華とはかけ離れた景色でした。

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芭蕉はなぜ平泉で泣いた?

芭蕉が平泉でなぜ泣いたのかは、よく次のように説明されます。

人の社会や人生の儚さを思って泣いた

権力者も華やかに栄えていた場所も、どうしようもなく寂れてしまった。世の無常を感じ、古い人を懐かしく思う

 

『平家物語』の出だしと同じような、うつろいゆく事への無常さ・むなしさと重なる部分がありますね。

 

参考:『平家物語』

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者もついにはほろびぬ、
ひとえに風の前の塵に同じ。

 

かつて源義経一派や奥州藤原氏が功名・栄華を夢見た平泉も、いまや草ばかり。

杜甫の漢詩を思い浮かべ、笠を置いて腰をおろし、長い時間、栄華盛衰の移ろい・むなしさに、松尾芭蕉は涙を流して過ごしました。

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芭蕉が泣いた本当の意味?

教科書や試験なら、前項の内容で十分ですが、昔の人の栄華と衰退を思って泣いた、というのは、現代人の私たちには、にわかに分かりづらいことではあります。

芭蕉が源義経オタクだった、とかなら、いまにも通じるのですが。

 

ちなみに、芭蕉は遺言で「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」と残しました。

木曽義仲といえば、平家の大軍を打ち破ったけれど、最期は従兄弟・源頼朝の送り込んだ源範頼・源義経に討たれてしまうという、平安時代末期の武将です。

 

源義経オタクどころか、木曽義仲が好きなら、どちらかというと、源義経は敵となりますね。

 

 

冗談はさておき、芭蕉が泣いた心情、気になります。

よほど思い入れがあるのではないでしょうか。

何しろ、この俳諧の旅の目的は、「平泉に行くこと」だったのですから、松尾芭蕉には、もともと強い興味があったと考えられます。

 

人間の栄華の儚さを思って泣いた、ということですが、芭蕉は日頃、人間の儚さや自然の美しさ、精神・魂に重きを置いた思考の持ち主だったようです。

俳諧の道でも、そうした精神をきわめようとしていました。

 

さらに、芭蕉が平泉で泣いたのは、なにも人間社会の儚さ、世の中の無常さだけが原因だったわけではありません。

源義経や、彼に付き従った家来たちの忠義、彼らの主従。

 

そうした故人の心にも、思うところがあったのです。

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芭蕉の生まれや俳諧への道

松尾芭蕉は、徳川家光(三代目)の時に生まれました。

伊賀上野(三重県)の芭蕉は、源氏とゆかりがあるわけではなく、平氏の末流を名乗る家柄で、名字帯刀を許された家でした。

しかし、準武士階級という、農民と同じような階級だったため、出世も望めない身分であると悟り、文芸、特に俳句の道へと進んでいくことになります。

 

芭蕉の俳諧の精神は、自然や人生の探究がテーマでした。

30歳半ばを過ぎると、芭蕉は禅を学びはじめます。

 

芭蕉が『奥の細道』を書く旅に出たのは45歳の時ですが、旅に出る前から「困難な旅路」と予想されていました。

 

東北地方には、知り合いもあまりいなかった芭蕉は旅に出るとき、「道路に死なん、これ天の命なり(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)」と、決死の覚悟で出掛けました。

たどり着いたときには、感慨もひとしおだったことでしょう。

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まとめ

松尾芭蕉の奥の細道。

 

平泉で諸行無常を感じ、泣いた心情は、正確には本人にしかわかりません。

それでも、芭蕉のなかに、どんな思いがあったのかを想像することは、とても意義のあることですね。

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