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奥の細道・平泉「義臣すぐって」の意味とは?松尾芭蕉の想いと源義経

奥の細道・平泉「義臣すぐって」の意味とは?松尾芭蕉の想いと源義経

 

松尾芭蕉『奥の細道』「平泉」の一節に、「義臣すぐつてこの城にこもり」という言葉があります。
この「義臣すぐつて」の意味や、「この城」とはどこを指しているのか、わかりやすく解説していきます。



「義臣すぐつて」の意味

まず、「義臣すつぐて」という言葉から解説していきましょう。

「義臣」とは、ここでは義経の部下たちのことを意味しています。

「義臣」とは、そもそも「忠義心の厚い臣下」を指す言葉です。現代日本では使われなくなった言葉ですが、義経に限らず、身分差・主従関係の当たり前だった世の中では、主人のために尽くす臣下を「義臣」「忠臣」といいました。
日本だけでなく。中国や韓国の時代劇などを見ていても、よくつかわれています。

 

「義臣すぐつて」の「すぐつて」は、「すぐって」と読みます。漢字にすれば「選って」となるでしょう。
つまり「選んで」という意味です。
今でも「選りすぐり」という言葉の通り、「すぐって」という言葉には、ただ選ぶだけでなく、多く選択肢のある中から、すぐれたものだけを選び取る、というニュアンスがあります。




「この城」とは

松尾芭蕉のいう「城」とは、「高館」を指しています。

「高館」は、かつて源義経がかくまわれていた屋敷があったと言われています。




この文章に秘められたストーリー

そんな場所に立った松尾芭蕉。「高館」に来て、かつてここには、源義経がかくまわれた城があったのだなあ、と思いにふけります。

そして、自分に忠義心の厚い部下たちを選りすぐり、源義経は城に、まさにこの場所に立てこもっていたのか、という思いが、「義臣すぐつてこの城にこもり」の短い文の中に表現されています。

 

松尾芭蕉は、たったこれだけの短い文章しか書いていませんが、ここから多くのことが読み取れます。

 

源義経が「この城」つまり高館に立てこもったとき、時代は平安時代末期でした。

兄である源頼朝は、すでに鎌倉幕府を開き、日本初の武家政権を成立させていました。

 

天皇から征夷大将軍に任命された源頼朝に逆らうことは、天皇に逆らうも同じ。

兄・源頼朝は絶対的な権力であり、逆らえば朝敵(朝廷の敵)、逆賊となってしまいます。

そうした時勢のなか、頼朝に敵とみなされた源義経についていくということは、冷静に考えれば、源頼朝の兵に捕まるかころされるか、どちらにしろ罪を問われることになります。

源義経の味方の中から、裏切り者も多く出て、人はどんどん離れていきました。

 

そんな中、わずかな部下は、決して源義経のもとを離れようとはせず、最後までともに戦おうとします。

武蔵坊弁慶や兼房などの「義臣」です。

 

ひとたび主君を定めたならば、何があろうと裏切らず、その主君に従う義理を守ろうとする者たちでした。    一転して、追われる立場となった源義経は、兄の源頼朝に攻めたてられ、味方をうしないながらも、「義臣」たちと、、平泉まで落ち延び、高館に立てこもります。

 

そして「この城」に、わずかに残った部下たちと、必死に抵抗しました。

 

当地、平泉の地は、奥州藤原氏が実権を持っていました。

源義経は、かつて奥州藤原氏と良好関係にあり、今回も頼みの綱として頼っていきました。

奥州藤原氏も、源義経をかくまいました。

 

しかし、奥州藤原氏のなかで当主が変わると、方針が変わってしまい、源頼朝側に寝返ってしまうのです。

 

源義経はいよいよ苦境に立たされ、平泉の地で滅ぶことになります。

そんな中でも、数名の「義臣」だけは、どこまでも源義経についていったのでした。





まとめ

平泉の高館を訪れた時、松尾芭蕉の思考は、五〇〇年ほど前までとんでいきます。

源義経が平泉で滅んだこと、そして忠義心を忘れなかった数名の「義臣」たちを想って、この文章を書いたのです。





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