努力の意味で、座右の銘に使えそうな「他山の石」。
類語として「反面教師」「人の振り見て我が振り直せ」と
出てくる故事成語ですが、
「他山の石」の意味は本当に反面教師なのでしょうか?
そして「他山の石」の由来や全文は何でしょうか。
考察していきたいと思います。
他山の石の由来は故事成語!意味は反面教師?努力の座右の銘に使えることわざ探し!
出典は?
「人の振り見て我が振り直せ」の元となった
中国古典のことわざ「他山の石」。
「他山の石」は、中国の古典
『詩経』(小雅・鶴鳴)に登場することばです。
『詩経』とは?
『詩経』といえば儒教の基本経典“五経”に数えられる経典。
五経とは
『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』、
そして『楽経』を入れると六経…
と歴史の授業で習った人も多いと思います。
しかし、詩経とは何か?と
分かる人は意外に少ないと思いますので
『詩経』について簡単に見ていきます。
『詩経』とは、中国最古の詩集です。
その成立は紀元前9世紀~前7世紀とも、
紀元前10世紀~前6世紀ともいわれています。
日本はそのころまだ弥生時代!
中国ではすでに詩305編を収めた詩集が
できていたんですね。
かの有名な「孔子」が門人教育のために編纂したと言われますが
詳細は分かっておらず、作者不明です。
『詩経』は詩集ですが、儒家(儒教の学者)の経典の一つとして
扱われます。
『詩経』の内容は、当時の人々の生活の感情を
うかがい知ることができるものです。
恋愛や労働、家族、出征などについても
書かれています。
日本でも『万葉集』には庶民から貴族まで、
恋愛から防人の歌まであるのが
思い浮かばれますね。
さて、そんな『詩経』には
為政者の搾取に対する憎悪や
時間・時代が移ろうことへの恐れ、
また時代を嘆く詩なども収められています。
「他山の石」が書かれている部分は
どこにあるのかというと、
宮廷の音楽が収められている
<雅>という部分。
小雅、大雅のあるうち
小雅にあります。
「他山の石」中国語原文
では、第二章に書かれている
「他山の石」の原文を見てみましょう。
(第二章)
鳴于九皋 聲聞于天
魚在于渚 或潛在淵
鶴樂彼之園 爰有樹檀
其下維穀
它山之石 可以攻玉
「他山の石、以て玉を攻(おさ)むべし」は、
1つの詩の終わりの部分に書かれた一文にすぎません。
原文の現代語訳(直訳)
鶴は深い谷間の沢にいても、その声は天まで届く。
魚は水際に遊ぶが、あるときはまた深く水に潜ってしまう。
私が庭で育てている檀の木もやがて見事に伸びて人目をひくだろう。それが楽しみだ。
その木の下には穀(からたち)などの雑木を植えて支えにする。
雑木も使い方では役にたつ。
よその山で取れた粗悪な石でも、玉を磨くために使うことが出来るということだ。
生きていれば色々な現象があり
一見役に立たないようなものがあるだろう。
しかし色々なものが役に立つ、という
戒めのように見えます。
日本語で通用されている意味
「他山の石」は
日本語でもことわざとして
使われています。
類語には「人の振り見て我が振り直せ」があります。
辞典を引くと
よその山から出たつまらない石でも、自分の玉を磨く砥石として役立つ。自分に関係のないよくない出来事や他人の誤った言行でも、それを参考にすれば自分の修養の助けになるということ。
このように「他人の何を見ようが、自分を磨くために役立てなさい」
というような、自己磨きのための意味で
現代社会では使われています。
他人の誤った言動を見たり、
役に立たなさそうなつまらない出来事に遭遇しても、
それをよく参考にすれば、自分の成長の助けとなる、
という意味ですね。
本当の意味は違う?
書かれた当時の意味を知るには、
当時の世界観が重要になります。
『詩教』が学ばれていた当時、
中国は儒教の世界でした。
つまり、詩経は儒教の観点から読むと、
五経として儒教に活用されていた当時の正解が読める
ということになります。
では、儒教的に『詩経』、「他山の石」を読むと
どういう意味で読めるのでしょうか。
この詩には、動物や木々、庭が出てきます。
鶴・魚は賢者を表し、
庭の名木は君主を指し
木は臣下や人材を指しているようです。
石も人材を指しているようですね。
この言葉の置き換えをして『詩経』「他山の石」を
読んでみると、
賢者は野に者が野に隠れていても、自然と名声があがってくる 賢者は野にいるが、また目の届かぬところにいってしまう 明君が育つのを私は楽しみで、 そのために周りに様々な人材を置こう。 どんな人材も使い方次第で役に立つ。 よそから来た粗悪な人材でも こちらのことを良くしていくためには使えるだろう。 |
こんな感じに読むことができます。
「人の振り見て我が振り直せ」の意味とは
だいぶ違って読めますね。
さらには、この詩は
君主に対して「賢者を迎えることを勧める」ための詩で、
「他山の石」というのは
ただ粗悪な人材を表現しているのではなく、
どこにいるかわからない賢者を
「他山の石」として迎えるべきだ、
という忠言のようなものだそうです。
現代とは違って、
身分差も大きい古代中国ですから、
人材登用はなかなか偏見もあったのかもしれませんね。
もし支配者に対する戒めの意味で書かれたものだとしたら、
権力者の起源を損ねないよう
賢者のことを「他山の石」と表現し、
あえて低く表現しているのかもしれません。
(※個人的な見解・感想です)
「他山の石」の効果的な使い方は?
「他山の石」は、「大辞林」によると
「友人の失敗を他山の石とする」
という例文が載っています。
しかし、使い方によっては失礼に当たりそうな
言葉でもあります。
何しろ、「よそのくだらない石」という意味ですから、
「他山の石」を他人に例えるなど
失礼の極みになってしまいます。
もちろん、座右の銘とする場合には
「どんなことも自分のために生かしていく!」
ということで使えば大丈夫ですが、
日常のなかではどう使えばよいのでしょうか。
これについては文化庁がホームページで、
とても効果的な例文を紹介しています。
文学者の文学論,文学観はいくらでもあるが,科学者の文学観は比較的少数なので,いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが,自分の自分への申し訳である。
(寺田寅彦「科学と文学」昭和8年)
この文章では「他山の石」は自分を指し、
「自分も他人のための“他山の石”くらいにはなるのではないか」
という謙遜の表現をしています。
故事成語の意味を理解したうえで、
「反面教師」などの通用とは違う使い方をし、
しかも「誰かのお役に立てれば…」
という非常に効果的な使い方です。
この文章で著者は,謙遜しながらも,科学者である自身の文章が文学に興味を持つ人々にとっても,「いわゆる他山の石の石くず」程度になるのではないかと記しています。つまり,文学の世界から見れば「よその山」にいる自分が科学者の立場から書いた文学論であっても,読者の参考になるところがあるのではないかと言っているわけです。「他山の石」の効果的な使い方といえるでしょう。(引用:文化庁ホームページより)
素晴らしい文章ですね!
まとめ
今回は「人の振り見て我が振り直せ」の類語、
「他山の石」の意味について
見てきました。
古代中国では、国家の王に対して
賢者をとりたてなさい、という
忠言のために歌われた詩であったようです。
しかし、現代では
「他人の悪いところをみたら、自分を見直し磨きなさい」
と個人への戒めの意味に変わっているようです。
だからといって、儒教的でない見方の
意味が誤りなのではなく、時代を経て
庶民に使いやすい意味に変化してきたのでしょう。
何にせよ、日本の現代社会では
身分制度はないわけですから、
自分の役に立つように
この言葉を使っていったらいいのではないか、
自分のために使うのも素敵ではないかな、
と思います!
組織を考えれば、人材登用や
会社組織・人間関係をしっかりしていく上でも
良い参考になりそうな言葉ですね!
言葉を活かすもころすも己次第。
たくさんの言葉を知って、
自分に役立てていきたいですね!